おはようございます。
明日は敬老の日。
という事で、亡き祖母(母方)について思い出してみたいと思います。
祖母は2020年2月に他界しました。
92歳と大往生でした。
病室で最期の瞬間を見送ることができたのですが、皆で祖母を思い出したあの日のこと。
そして祖母という人間について、書いてみたいと思います。
少しヘビィな内容かもしれません。
しかも少し長くなります。
もしよかったらお付き合いください。
【目次】
祖母について
祖母はこんな人です
私は幼き頃には両親が別れており、母と、その祖母、たまに祖父と暮らしていました。
たまにというのは、祖父は仕事、単身赴任で実家にいる期間は少なかったのです。
祖父は優しかったですが、祖母はとにかく怖かった。
母も私もルーズなので、毎日のように何かにつけて怒鳴られていました。
「電気を消しなさい!」
「ちゃんとかたづけなさい!」
「ひじをついて食べたらあかん!」
今思えば正しい事を言ってくれていたのだと思いますが、言い方がキツいので、言われる方はこたえました。
母が仕事に出ているので、基本的に祖母と二人。
私も長い思春期(最期まで継続した)に入ると、ご飯どきの会話も全くなくなりました。
小学生低学年くらいになったら、ご飯どきにドラえもんのビデオ(VHSだった)を付けて、無言で食べていたのを思い出します。
たまに喋ったら怒鳴られるので、祖母の事がたいそう嫌いでした。
祖母は悪口が好きでした。
うちへ来るご近所さんや配達の人に、悪口をよく話していました。
それが聞こえてくると、私は、また言ってんのかと呆れていました。
祖母は正義感が強かった。
老人会とかで気に食わないことがあったら言ってしまうので、揉めたという話も聞きました。
そして、慈悲深くて、24時間テレビの様な番組を見ると「可哀そうだねぇ」と泣きます。
ユニセフの募金もずっとしていたし、人に何かを上げるのも大好き。
足の悪いご近所さんに何か買っては持っていきます。
外食に行くと、わざと量があるものを頼んで、自分はあまり食べず、私に食べなさいと皿を置いてきます。
年を取るにつれてそれがエスカレートしてきて、その祖母の考える正義感とか慈悲深さも押しつけがましくて嫌いでした。
祖母は猫が好きでした。
野良猫にエサをやり、それが住み着き、亡くなり、また新しい子が住み着き。
去勢はしてたけど、近所の人には良く思われていないんだろうなと思い、成長するにつれて、むやみに野良猫を飼うところも嫌になっていました。
猫は生まれた時から馴染みがあって好きですよ。
祖母は歌が好きでした。
コーラスにも通っていましたが、耳が聴こえにくくなって、歌いにくくなって。
行かなくなって、更に色んなことへの気力が無くなっていった気がします。
祖母は料理が上手でした。
祖母は色々な料理を作ってくれました。
天ぷらを作るときは、こんなに誰が食べるんだというぐらい揚げましたが、割とすぐにいつも無くなっていました。
祖母は手芸が上手でした。
子供の頃は、カバンやセーターなど、よく編んでもらっていました。
思春期になると、それが恥ずかしくて嫌になったりもしました。
大きくなって、結婚して完全に家を離れてからは、良い距離感と言いますか、怒られることもなくなりました。
孫も見せるようになって、以前よりはコミュニケーションがとれるようになりました。
雪ちゃんを見るといつも笑っていました。
祖母が年老いて、丸くなったことも大きいと思います。
恐怖!おばあちゃんの思い出
ドラえもんの「おばあちゃんの思い出」の様な感動話は有りません。
すごく覚えているエピソードは、小学生の頃のこと。
家に帰るのが遅くて、なんか外で遊んで足も汚れて帰ったのです。
すると、激怒した祖母が
「この足が悪いんか!この足やな!」
と叫びながら私の足をタワシでこすりました。
痛くてとてつもなく泣きました。
今思い返してもコワすぎますね。
祖母と母のいびつな関係性
祖母は母に厳しかった。
母には妹もいますが、とにかく昔から特に母に厳しく、妹はあまり怒られなかったとのこと。
母は天然でぬけたところがあるので、そこを祖母はいつも全力で攻撃します。
グチグチ言うのはもう慣れているので、無視すれば良いと私は思っていましたが、母は譲れない部分があり、たまに爆発するのです。
祖母がまだ若いころは良くケンカしてたなぁ。
年を重ねるごとに入れ替わる関係性
若いころは基本的に言われる側の立場の母でしたが、祖母が年老いて、耳も遠くなってからは、かなり言い争いは減ったように思います。
祖母もグチグチと言うのですが、強く言い返しても、そこから更に返ってきにくくなったので、ケンカが続かないんですね笑
足も悪くなってきて、祖母は母のサポートなしには生きていけなくなり、完全に母が強い立場になりました。
だけど母が凄いなぁと思うのは、私だったらあんなに言われ続けてきたら、きっと許せないと思うんですが、ちゃんと介護していましたね。
最後まで、文句も言われながら。
祖母の最期
祖母の人生の後半は、だんだんと足が弱くなり、ベッドで過ごすことが増えました。
それでもほぼ最後まで実家で過ごしました。
そんなある時、祖母がお腹が痛いと入院しました。
腹膜炎とのことでしたが、割とすぐ退院できることができました。
退院の立ち合いをしましたが、もう支えないと歩くのも大変そうでした。
母が施設も勧めたそうですが、祖母は依然として「もっと大変な人が沢山いるのに、私が入ることで迷惑かけられない」と断ったようです。
それから1か月しないうちに、再度入院したと知らせが入りました。
家でコケて、肋骨を骨折したのです。
それからは早かった。
どんどん弱っていって、喋れなくなり、誤嚥性肺炎になり、ついに酸素マスクをつけるようになりました。
いよいよという時、私と母とその妹で病室にいました。
もう祖母の意識もない為、みんなで言いたい放題話し、笑いました。
昔タワシで足をこすられた話。
そして母はもっと大変そうでした。
そこで妹が言っていた言葉にハッとしました。
「でもおばあちゃんも寂しかったと思うよ。
おじいちゃんも家に帰ってこないし、皆も外に出てるし、それでも一人でずっと家を守ってたんやもんね。」
妹の話では、祖母はどうやら実母からあまり愛情を受けたと感じていなかったようなのです。
そのせいか、性格、考え方がとても偏っていました。
今思えば、ずっと祖母を理解できていませんでしたが、私が生まれた頃からずっと祖母なりの優しさを掛けてくれていたのだと感じました。
ずっと家事も一人で文句も言わずやってきたのです。
その後、私たちに見守られながら息を引き取りました。
もう無理だけど、もっと話すことが出来たら良かったなぁと思います。
それでも母と娘
あれだけずっと文句を言われ続けた母。
別れ際はどうだったのかというと、それでも、心から『いなくなると寂しい』という思いを話していました。
誰が見ても良くならないだろうという状態でも、快方に向かわないかと願っていたと思います。
もうこの感情は『愛』と呼ぶ以外に考えられなかったです。
私が家を出てから、ずっと2人で暮らしてきたのです。
私には計り知れない二人の関係性が見えました。
おわりに
長々と書いてきましたが、見て頂いた方、ありがとうございます。
今回文字に起こすことで、祖母について、少しですが向き合うことが出来た様な気がします。
色々な家族の関係性があるので、理解が難しい方もおられるかもしれませんが、その人の立場や気持ちを汲み取り、同じ人生の中で別れてしまう前に、向き合い方が見つかると良いですね。
敬老の日、おじいちゃん、おばあちゃんと話をしよう!
今だとテレビ電話も良いかもしれません。
ではまた!
【祖父のエピソード、こちらもどうぞ】